フレームウォーの功罪

火事と喧嘩は江戸の華、と言うが、その伝でいくと、フレームウォーはオープンソースによるバザール型開発の華、とも言えようか。

フレームウォー(flame war)というのはご存じの方も多いだろうが、ようするに罵り合いのことである。単にフレームとも言う。本来flameとは炎のことであって、ようは炎のごとく激烈な悪口雑言を(不)特定多数間で飛ばし合うということなのだが、オープンソース開発プロジェクトの中では往々にしてこれが起こる。一昔前はNetNewsでも盛んにやっていたが、最近ではそもそもNetNews自体下火なので、現在の「主戦場」はメーリングリストか掲示板、バグ報告システム、あるいはブログのコメント欄のようだ。

フレームウォーの始まりはたいがいつまらないことである。つまらないことに関してつまらない悪口や嫌味の類を書く奴がいて、それにカチンと来た奴がいて、あるいはそういった悪口をたしなめる奴がいて、さらにそのたしなめるメールにカチンと来た奴もいたりして、フレームが勃発する。一時間のあいだに、そのメーリングリストの一日あたりの平均流量と同じくらいの数のメールが来るようになったら、フレームが起きていると見てほぼ間違いない。発端となるメールAについてメールB、C、D…と返事が付き、さらにその一通一通に複数の返事が付く、以下繰り返し、というようなねずみ算的過程がフレームの本質で、このため飛び交うメールの数が短時間のうちに激増する。そのせいか、発言AについてB、C、D…と返事が付いても結局最後の発言にしか注目が集まらないIRCでは、あまりフレームを見たことがない。単にリアルタイムでフレームをやるのは体力的に辛いというだけの話かもしれないが…。裏を返せば、本当にフレームを激化させたくないのなら、皆が一致団結してとにかくコメントしなければよいのである。フレーム対策としてよく言われることわざに「荒らし野郎に餌をやるな」(Don’t feed Trolls)というがあるが、全くもって正しい。にもかかわらず、なぜか自らパイ投げ合戦に参加して火に油を注いでしまう「善意の人」が後を絶たないのが現状だ。

私が思うに、率直さと裏腹の口の悪さ、辛辣さというのは長年に渡りギーク文化の一部を形成していた。Ext2/Ext3ファイルシステムの作者として著名なハッカーのTed Ts’o氏によれば、「最後に言った者勝ち」を目指して延々と続くフレームウォーは彼の母校MITの伝統だそうである(もちろん彼はそれを快く思っていない)。年功序列やしがらみを排してとことん事実に即した議論ができる、という意味では、そうしたマインドセットにもそれなりにプラス面はあったのだろう。しかし、それならそれで別に悪口や嫌味をまぶして言う必要はないわけで、そこには相手をやり込めてやろう、寸鉄人を刺して注目を浴びよう、というある種サディスティックな暗い悦びがある。事実フレームは、ヒマで攻撃衝動や自己承認欲求をもてあましている子供っぽい人間にとっては愉しいものだ。特に、「正義は我にあり」とばかりに他人を糾弾するような場合には反撃されるリスクもほとんどないわけだから、いよいよ愉しさが増すのだろう。そんな時代が私にもありました。今でも飽きずに日々やってらっしゃる方もいますね。

ただ、このところしみじみ思うのだが、フレームはありとあらゆる意味で、全くの無意味である。私は未だかつて、フレームの結果説得されたという人間を見たことがない(みんなうんざりしてうやむやになったというのは見たことがあるが)。フレームは物事を感情的にこじらせるだけで、説得手段としては単なる時間の無駄である。加えてフレームは、一般に開発プロジェクトの人心を荒廃させ、当事者のみならず、熱心で優秀な無関係の貢献者をも退出に追い込むことがある。少なくともDebianでは、過去に何度かそうしたことが起こった。UbuntuのようなプロジェクトがわざわざCode of Conduct(行動規範)を明文化し、メンバの行動に一定の基準を設けているのも、ようはそうしたフレームの「二次被害」を避けたいからだろう。Debianは未だにCoCの導入に踏み切れていないが、私はUbuntuの判断は正しいと思う。

もう一つ付け加えるならば、私がフレームに興味がなくなったのは、結局のところ自分が多かれ少なかれ「決める側」「変える側」に回ったからだと思う。物事を評論したり分析したりするのは、実のところそんなに難しくはない。しかし、そこから得られた知見を元にして、実際に物事を決め、変え、推進していくためには、協力してくれそうな人を広範囲に探し、粘り強く説得しなければならない。その際には、フレームを起こしたり巻き込まれたりして不必要に敵を作る余裕は全く無いのである。相手をやり込めるだけなら子供でもできる。一人でできることはたかが知れている。難しいのは、全く素地の異なる相手に納得してもらい、自分のしてほしいことをしてもらうことなのだ。フレームは、一時の快と引き換えに、自分が渇望して止まない物事の実現可能性を著しく低下させてしまうのである。